J大津家の墓碑    大船1969 鎌倉市市民農園の左隣り


大津家は現在の大津公男さんの家で当村で苗字帯刀を許されていたのは、甘糟家と大津家の2軒であり
ました。昔はこの隣地に住家があったと伝えられ、「おつぼやと」と云われています。 江戸時代前期の名主
で大津権左衛門の遺徳を偲び慶応2年に当主であった大津右衛門が作成した墓碑が遺されています。

碑文の内容 江戸前期の粟船村は幕府直割領で千石耕地と云われる良田を持ちながら秣場が少なかった。 当時すでに伝馬用の
飼料も課されていたものと思われ、当時の粟船村名主であった大津権左衛門は、粟船村と岩瀬村両村の御伝馬飼料場として今泉
山(散在ヶ池付近)を入会地と認めるよう代官所に訴えた。 寛文8年(1668)に絵図面御裁許書が出されたが、その後、境界問題の
争いがあり、土を掘り境界を明確にしようと代官所に請願したが進展せず延宝6年(1678)5月、当時の代官成瀬五左衛門が検地の
時、案内役をつとめ、ようやくこれが認められたという。これがため権左衛門は3年間代官所に座り込みの訴えを続けた。これがもと
で病気となり元和元年(1681)に死亡した。今ここに碑を立て、その熟労を略記し、もって不朽に伝うるものなり。