A多聞院 大船町内会館の右隣り

天衛山福寿寺多聞院と号し、真言宗のお寺です。開山は天正7年(1579)南介僧都で開基は甘糟太郎左衛
門尉平長俊で熊野神社の別当寺院として建立されました。当寺にはたくさんの仏像が安置されていますが、
大きく分けて2つに分類されます。 一つは建立時に山ノ内村瓜ヶ谷にあった観蓮寺の仏像と、もう一つは
大船村に関係ある仏像が安置されていることです。全部で14の仏像があります。
毘沙門天立像 この寺の本尊です。毘沙門天は七福神の1神で、福徳をはじめ全ての願望を成就させてくれる福の神として現在
でも信仰をあつめています。また別名を多聞天といい、仏の四方をを守る守護神のうち、北方を守る神将です。
一説によると甘糟家の鬼もん除けとして多聞天を安置したと言われています。
十一面観音菩薩坐像 もとは当地の岡野観音堂に安置してあったが、 明治維新の「廃仏毀釈」後、 当寺に安置されたもので、
江戸時代から「鎌倉三十三観音札所」の第14番「大船岡野観音堂」霊場札所として信仰をあつめている像です。
またこのお寺には江戸時代の享保4年に甘糟玄庵氏が作成した「大船村岡野堂十一面観世音菩薩縁起」が保存
されています。これによると、その昔鎌倉の由井の長者と云われた染谷太郎大夫
時忠公の3歳の姫が大きな鷲に
さらわれ、 姫の残骨が六国見山の南で発見され、 時忠公はその菩提を葬うため岡野観音堂を造立した。 その後
火災にあい観音菩薩像が焼けたが、首に埋めてあった骨は幸いにも残ったので、その頃の仏工運慶という名人に
新たに彫きざませ、骨を腹ごもりに収めたのが今の尊像であると伝えています。

不動堂 不動明王像が安置され、浪切不動尊と呼ばれていますが、由来は空海(弘法大師)が修行のため唐の国(中国)に渡り、大
同元年(806)に帰国の途についたが、途中嵐にあい、船が沈みかけました。この時空海は「南無大日大聖不動明王、我等
をお守り下さい」と祈ったところ、 天上に不動明王が現れ、剣をはらったところ、波が二つに割れ、船はその中を進み、無事
日本に帰国することが出来たそうです。以来、この不動明王のことを 「浪切不動尊」と呼ぶようになったと伝えられています

